投稿した論文の出版が決まった後に、出版社に注文しておくと、自分の論文のページだけが印刷されたものを冊子として何部でも購入することができます。これを「別刷り(抜き刷り:offprint)」と呼んでいます。
この別刷りを購入するというのは、研究者の間ではとても一般的な行為でした。過去形で書いたのは、現在この別刷りを買うということがどんどん少なくなっているからです。
一昔前に論文を読もうとすれば、図書室に届いた雑誌から論文を探してコピーするか、著者にハガキ(または電子メール)で請求して別刷りを送ってもらっていました。しかし、インターネットの普及によって、最近では、研究所や大学が契約している出版社から論文をPDFという形でダウンロードして入手するか、著者に電子メールを送って論文のPDFを送ってもらうようになりました。
私自身は10年くらい前から論文を読んだり書いたりするようになったわけですが、ちょうど過渡期にあったようで、別刷りを請求したこともあるし、されたこともありました。しかし、最近では、PDFを請求する電子メールをもらうことはあっても、別刷り自体を請求される機会というのは全くなってしまいました。
それでも、せっかく論文が出版されたのだからと、何部かは注文する癖はしばらくは残っていました。しかし、渡米してからは、別刷りを購入しても特に配る機会もないし(PDFでくれと言われる)、残った分は帰国する時の荷物にもなるし、たくさん購入できるほど潤沢な研究予算もないので、すっかり注文するのをやめてしまいました。
現在周囲(ハワイ)の研究者を見渡しても、別刷りを購入して配っている人はいません。論文が出版されたらそのPDFを送ってくれるので、別刷りからPDFへと完全に移行しているといえるでしょう。
また、英語を母語にする研究者は、コンピューター画面でPDFを直接読むのをそれほど苦にしていない気がします。日本人は英語を画面上で読むのはつらいですが、日本語で読む方はそれほど苦でもないのと同じでしょう。そういったこともあり、論文=PDFというのが定着しやすかったのかもしれません。
専門誌の方でも、雑誌自体を発行しないオンライン雑誌(Online Journal)が多数できたこともこの流れに勢いをつけています。さらに、(紙の)雑誌自体を発行しているにもかかわらず、すでに別刷りを作るのをやめてしまった雑誌もあります*1。一部の大手出版の雑誌では、著者に別刷りを一定数無料で配布する場合もまだありますが、無料PDF50部を配布、つまり50ダウンロード分は無料というシステムも増えつつあるようです。*2
このように、別刷りからPDFへと論文情報の媒体は移行してしまったのですが、そもそも別刷りとは、かつてどういった役割を担っていたのでしょうか。
私が尊敬する日本の昆虫学者・岩田久二雄さんによる自叙伝「昆虫学五十年―あるナチュラリストの回想」の中に、別刷りについて当時の考え方を垣間見ることができます。
文献あつめは主として学術雑誌に登載された報文や論文であるが、現代から年を追って昔にさかのぼるにつれて、原文を見ることに困難を感じはじめた。とくにその雑誌がなじみのうすい小国で、大学でも購入も交換もしてくれないものでは、直接に研究者に申込むか、知人にたのんで複写してもらうしかない。そこで研究報告の別刷交換の必要が生まれてきた。どうしても自分も別刷をもたねばならなくなった。
「昆虫学五十年―あるナチュラリストの回想」p.38-39 より抜粋
戦前のことなので、当然コピー機もなく、複写といっても多くは手書きで写す時代でした。現在でも別刷り自体、1部数百円で購入する必要があります。ということは、かつて別刷りはそれなりに貴重なものであったはずです。別刷りを請求すればそれに対して自分の別刷りを謹呈するというのが礼儀であったのでしょう。つまり、別刷りとは、論文という情報価値としてだけでなく、他の研究者と対等に情報交換するために重要であったのかもしれません。