昆虫少年の歩む道

 米国でそれほど多くの知人がいるわけではないけれど、学生や大学院生、教員の中に、いわゆる子供の頃からその対象生物にどっぷりつかっているという人をほとんどみていません。


例えば、幼少の頃から昆虫を採集して標本を作成しているような昆虫少年が、そのまま大学で昆虫学の教員になるといったような場合です。もともとある程度は動植物に関心があって、大学で研究のトレーニングを受けて研究者になった(またはその過程)という人が多いのでしょう。


 日本でも植物学の教授や、昆虫学の教授といっても、すべての人が子供の頃から植物や昆虫の採集、観察に熱中していたわけではないようです*1プロ野球やプロサッカーなどの選手をみていると、幼少時から本格的な練習をしている人が多いこととはちょっと対照的です。


 昆虫少年から、大学や研究機関などに働くような昆虫研究者になるのは、一筋縄ではいかない事情があるからかもしれません。以下に昆虫少年がたどる道のりを一般化して記してみました(あくまでこれは仮説です)。「昆虫」を「植物」、「鳥」、「爬虫類」、「魚」などに置き換えてもほとんど同じことがあてまると思います(ただし、いずれの段階でも昆虫よりも少ない人数だと思います)。また、「少年」を「少女」にしても同じですが、もっとずっと少ないと思います(本格的な研究者になった昆虫少女を個人的には知らない)。


幼少の頃
 多くの子供は昆虫をはじめ動植物が好きで、日本では特に夏休みのセミ採りなど昆虫採集の伝統があります。親子でカブトムシやクワタガムシを採集しに行くのも典型的な夏のイベントの一つでしょう。しかし、そうした子供たちも、年を経るにしたがい、しだいに昆虫への興味を失っていきます。現代では、テレビ、ゲーム、スポーツなどさまざまな娯楽があるためかもしれません。


中学ー高校生
 一部の子供は昆虫を本格的に採集して標本にしたり、飼育して観察したりするようになりますが、それも小学生まででしょう。中学生、高校生へと進学していくにしたがい、クラブ活動、友達との交流など、さまざまな関心や誘惑が増えてきます。また、受験など勉強にかかわる親や学校といった外部からのプレッシャーも強くなってきます。また、昆虫の採集道具や標本作成道具、標本箱*2は高価です。高校生以下にとっては、親の理解が必要ばかりでなく、その購入に関しても自ずと限界があるでしょう。このような状況で、趣味的に昆虫の採集や観察を続けて行くのが難しくなって、やむなく一時的な中断を強いられます。


大学受験
 将来昆虫学者になりたいという将来像にみあうような大学を受験する必要がでてきます(後述するように現在では大学院選択の方が大事)。実は、どういった大学や学部にいけば昆虫学者になれるのか、案外その判断は難しいものです。また、学力にあった大学や学部もそれほど選択肢が多いものでもありません。結局、昆虫学とは離れた大学や学部を選択することになることも多いでしょう。


大学生
 晴れて、希望の大学に入学できたとします。しかし、中断していた昆虫採集や観察を再開するかどうかも、ちょっとした難関です。受験のプレッシャーから開放され、華やかな大学生活のスタートです。サークル・クラブ活動、友人との交流など、さまざまな勧誘が待ちうけているからです。また、そういった誘惑に負けない真面目な性格ほど、昆虫学以外にも実に魅力的な学問があることを知るのも大学です。これまで知らなかった科学技術や未知の学問へと興味が移っていく人も多いでしょう。


研究室
 大学の研究室への配属です。入学した大学・学部に、昆虫を扱う研究室があるかどうかが問題です。あらかじめ調べて入学したものの、案外思っていたとは違う場合も多いからです。大学の教員も他大学へ移ったり、退職したりで、その大学・学部での具体的な研究テーマも移ろいやすいからです。好きだった昆虫を扱っていなかったり、昆虫といっても「ダサイ」害虫を扱っていたりすることも意気消沈させることでしょう。


研究テーマと指導教員
 なんとか希望の昆虫を扱える研究室に入れたとします。研究は、教員の指導のもと行わなければなりません。しかし、大学教員がすべての昆虫やテーマに詳しいわけでもありません。つまり、希望するような昆虫や、テーマを指導してくれるとは限りません。また、昆虫少年出身者の中には、さまざまな昆虫の種名や生態にも詳しい人もいます。しかし、先に述べたようにすべての大学の教員が昆虫少年出身でもなければ、昆虫に詳しいわけでもありません。昆虫の先生なのに昆虫に詳しくないことをコンプレックスに思っている場合もあります。下手に刺激して、昆虫少年出身の学生は疎まれてしまうかもしれません。


研究の実際
 希望の昆虫の研究をスタートすることができたとします。しかし、思い描いていた昆虫研究とのギャップに苦しむかもしれません。これまで好きな虫を採集して好きなように考えてきたのに、研究となると面倒な作業が増えます。また、関連の外国語で書かれた文献を読む必要がでてきます。昆虫を学問体系の中でとらえるには、これまで抱いていた感情を殺し、客観的に観察事実を捉える必要もあります。これまで楽しかった昆虫の採集や観察と比べて、学際的な昆虫研究はなんとつまらないものかと感じる人も多いでしょう。何も我慢して昆虫研究をするよりも、これまでのように空いた時間で楽しむ方が性にあっていると思うのも自然なことです。卒論で昆虫研究を終え、卒業後はサラリーマンや公務員として勤めながら休日の余暇としてこれまでどおりの昆虫採集や観察をする人も多いと考えられます*3


大学院入学
 現在、本格的な昆虫研究者になるためには、大学院の修士課程や博士課程を修了する必要があります。つまり、大学卒業後に大学院へ入学しなければなりません。しかし、これは大学入試よりも実はそれほどハードルが高くありません。というのも、多くの大学院の試験は、英語と専門科目だけだからです。またいずれの大学院でも、その受験資格は、どこの4年生大学を卒業しても良いのです。このように、(現状では)大学院に入るには大学入試ほど大変ではありませんが、修了するまでが一苦労です。日本の場合は、(4年制)大学卒業後、修士で2年、博士もあわせると5年の道のりです。大学院での学費や生活費を考えると、(奨学金などを考慮するにしても)親の理解がかなり重要になってくるでしょう。


大学院での研究
 大学院に無事入学し、希望のテーマで研究を開始できたとします。大学院では、先に述べたような地道なデータの収集、研究テーマの意義付けを行うための小難しい文献の読解、そして研究成果の発表があります。なんとか、地道な作業を克服できたとしても、研究室でのセミナーなど研究成果の発表が次なる難関です。これまで自分自身おもしろいと思っていた研究内容を、他の人に向けてなぜ面白いかを客観的な裏付けをもとに説明しないといけないからです。そのために、既存の研究を文献から探し、自身の研究との関連性や新規性を見出す必要があります。すでに知られている結果を改めて確認するだけではなかなか認めてもらえません。セミナーでは怖い教員や先輩院生の厳しい指摘に耐えなければなりません。


大学院修了
 大学院を修了するためには、学会発表や学術論文を書かなくてはいけません。学会発表は、学会に入会し、ポスターや口頭発表を行えば良いのでそれほどハードルは高くありません。各学会は年に一度のお祭りのような雰囲気でもあります。研究内容について質疑を受けたりしますが、公の場所ですのでそれほど厳しいことを言われるわけではないでしょう(たまに厳しいことを経験するかもしれませんが)。しかし、学術論文はちょっと大変です。まず、基本的には英語で書く必要があることでしょう。日本語の論文も書いて良いですし、ある程度認められる場合もありますが、いずれにせよ英語の論文を書かなくてはいけません。英作文を書く訓練をあまりしていない日本人には大変です。たとえ完成した原稿を雑誌に投稿しても、今度は査読者からの質疑に答えなくてはなりません。学会発表とは違い、論文の査読者の多くは匿名ですので、厳しいことを言われて意気消沈することがしばしばです。最終的には学術論文を何編か書いて、最後はそれらをまとめたものを学位論文として提出します(複数の教員による審査と質疑応答があります)*4。大学院(修士+博士)は通常5年間の課程ですが、5年で修了できるとは限りません。学術論文や学位論文が書けなければ、さらに何年もかかることになります(通常、修士は最大4年まで、博士は最大6年まで、それ以降は休学したり・・・)。このような発表のプレッシャーに耐えられず、研究者は向いていないと思う人が出てくるのも当然のことでしょう。


就職活動
 晴れて論文発表を行い大学院を修了したとします。次は、就職です。しかし、昆虫研究者の就職先はそれほど多くはありません。大学の教員、博物館の学芸員、公的機関の試験場・研究所、民間だと環境アセスメント会社などがあります。就職には、筆記試験を受ける場合、研究業績と面接審査による場合、コネクションの場合などいずれか、または複数の組み合わせで決まります。博士課程を修了してすぐに就職できる例は現在では稀です。何年も就職活動する必要があるかもしれません。その間、アルバイトをしながら無給で研究機関に籍をおかせてもらったり、公的な奨学金をもらいながら研究活動を続けてたり、ポスドク(任期付の研究員)として研究機関で働いたりする必要があります。いずれにしても、就職のためには研究をしていない空白期間を作ってはいけません。


就職してから
 晴れて就職したとします。しかしまだ安心はできません。たとえ名目上は昆虫研究者になれたとしても、しっかりとした研究(研究成果を学会や論文として発表すること)を続けないと本格的な研究者とは(学問の世界や学会から)判断されないかもしれません。就職先では(お給料をもらっているわけですから)自分がやりたい研究を思う存分できるとも限りません。また、大学院時代のように厳しい上司や先輩研究者と共同で研究を進めないといけないかもしれません。


おわりに
 こうして考えてみると、昆虫学の教員や研究者が必ずしも昆虫少年出身ではないということは、不思議でも何でもありません*5。逆に言えば、(あたりまえですが)昆虫好きでなくても昆虫研究者になることができるということです。はじめにも書きましたが、「昆虫」でなくても、他の動植物に置き換えても同じことと思います。動植物それ自体に熱中することと、それを学際的な意味で研究することとは別のことなのかもしれません*6

 

*1:ただ、日本では幼少時の昆虫採集の裾野が広いからか、昆虫少年がそのまま研究者になっているケースは他の国よりも多いような気はします。

*2:たとえば、標本箱だと1箱で安くても2,3千円、高いのなら8千円もします。

*3:職業的な昆虫研究者にならずとも、他に職を持ちながら昆虫採集や研究を続けることも可能です。自由な分、むしろ楽しいことが多いかもしれません。ただし、この場合の次なるハードルは、結婚でしょう。主に自宅での研究になるので、パートナーの理解が必要不可欠だからです。冷蔵・冷凍庫に虫を入れられてパートナーが耐えられるかどうかは良い判断基準かもしれません。

*4:修士論文には学術論文の出版が必要というわけではありません。

*5:たとえ、昆虫少年が本格的な昆虫研究者になっている場合でも、少年時代熱中していた虫(たとえば、チョウやクワガタムシ)を、ずっと研究している事例はずっと少ないことでしょう。

*6:逆にいえば、こんなことを考えられるのは動植物学くらいかもしれません。子供の頃から医学や分子生物学の勉強や訓練をしている人なんてほとんどいないわけですから。