やっぱり気になる年齢?:研究職の定年

 最近ふと感じること。


 米国では人に直接年齢を聞いたりしない、と思っていましたが、結構聞かれます。私は外国人だし、男だし、アジア系はたいがい年齢不詳に見えるし、(ポスドクにしては)若そうに見えるし、(英語話せないし)、ということがあるのかもしれません。


 では、米国人同士は聞かないのでしょうか。ぶしつけに「何歳?」と聞くことはあまりなさそうです(日本人ではありがちです)。しかし、「今日は誕生日」と言っているのを聞くと、(チャンスとばかりに?)年齢をたずねているのを見たことがあります。また、直接本人に聞くのではなく、他人から情報を入手するというのも手段としてあるようです。そして、親しい間柄では、お互いに何歳であるのかを1,2年の誤差はあるもののしっかり記憶していることも印象的です。


 つまり、米国人も結構人の年齢を知りたがっている、ということです。人は老いれば必ず死にます。また繁殖適齢期というのもあります。このように、年齢は、いかなる文化、社会においても人を推し量る重要なパラーメターの一つなのかもしれません。


 研究者の世界はどうでしょうか。頻繁に開かれるPh.D.Defenseをみるに、30代前半から後半にかけてが多いようです。日本の20代後半と比べると遅い印象があります。しかも、Ph.D.student になって、4年くらいでPh.D.がとれれば早い方だと言うコメントも聞きました。これも、日本の標準3年と比べると長いような気がします*1。


 30代半ばにPh.D.を取得し、その後数年のポスドク期間を経て、運が良ければ Assistant Professor に採用され、さらに数年後にテニュア審査をパスして任期のない(安心の)研究職につくことができます。すると、いったい何歳で Professor になれるのだろうと思ってしまいます。しかしそれは日本的な考え方のようで、なぜならここ米国では定年がないからです。任期のないProfessorになれば、60や65、70歳で退職する必要がないということです*2。これは研究者にとって大きな魅力といえるでしょう。実際、Rさんは英国で任期のない研究職から米国にやってきた一人です(理由は他にもあったらしい)。曰く、「定年を設けることはすなわち年齢差別である」とのこと。


 実際日本では研究職に限らず多くの職場では、上司の定年があと何年だから・・・と指折り数えてなんとか日頃のストレスから耐えようとする姿を垣間みます。定年のない状態では、嫌な上司がずっといることになります。しかし逆に、定年がないことで、「待つ」や「耐える」という考えを捨て、別の積極的な考え方が生まれるかもしれません(別のポジションに異動したり)。それが、いわゆる米国的なスタイルなのかもしれません*3。


 それでもやっぱり米国の研究者も年齢はそれなりに気にしているような気がします。



*1 学位を取得するまでの年数は、米国も日本も学部や研究科によってその平均値は異なるようです。それでも、標準3年を超えると日本ではなんだか遅れた気になりますが、米国ではそれほど気にしていなさそうです。


*2 もちろん自分が退職したい、と言えば辞めるのは自由みたいです。セミナー参加者は日本よりも明らかに平均年齢は高そうです。


*3 もうすぐ誰々が定年するらしい、と言っている(楽しみにしている?)米国人研究者もいました。米国では前もっていつ頃定年するかを自ら宣言しているのかもしれません(担当している学生のこともあるし)。